
原爆の傷跡残る広島に希望の光 カープ誕生
前年の1949年。被爆後、心の荒廃が案じられる時代で、「健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球を…」という情熱から球団創設が動き出しました。そして特定の親会社を持たず自治体や地域の会社が出資する市民球団として広島東洋カープは誕生します。1950年(昭和25年)1月15日に西練兵場(現:広島県庁一帯)で行われた広島カープ結成披露式には1万~2万人の市民が押し寄せたとも言われています。
1950年にカープが誕生し今年で75年。
プロ野球球団の中で親会社を持たない唯一の市民球団として
創立から今日まで多くの県民に支えていただき、
カープは育ってきました。振り返ってみれば
経営危機からはじまり悲願の初優勝、赤ヘル旋風、リーグ3連覇…。
さまざまな苦難と栄光を積み重ねてきた歴史があります。
ファンの皆さまとともにカープが歩んだ「赤の軌跡」をお届けします。
前年の1949年。被爆後、心の荒廃が案じられる時代で、「健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球を…」という情熱から球団創設が動き出しました。そして特定の親会社を持たず自治体や地域の会社が出資する市民球団として広島東洋カープは誕生します。1950年(昭和25年)1月15日に西練兵場(現:広島県庁一帯)で行われた広島カープ結成披露式には1万~2万人の市民が押し寄せたとも言われています。
球団創設早々資金難に陥ったカープでしたが「おらがカープを救おう」と県民あげての支援活動がはじまりました。きっかけは広島市警の有志が集めた浄財を寄付したことによります。支援活動はすぐに広がりを見せ、やがて球場前に四斗樽が置かれ、これに市民が金銭を投げ入れるようになりました。後に「たる募金」と呼ばれるこの出来事は、カープ草創期の逸話として長く語り継がれることになります。
「年度の勝率30パーセントに達しないチームの処置を以後は理事会が決定する」という連盟の規約を受けて、1952年のシーズンを勝率2割8分8厘で終えた松竹がオフに大洋に吸収合併されることになりました。これを受けて松竹のスター選手、小鶴誠、金山次郎を獲得しようと、後援会が中心となって市民による1,000万円募金が呼びかけられました。こうしたファンの熱意が伝わり小鶴、金山に加え同じ松竹の三村勲の3選手がカープに入団することになったのです。
身長167センチと小柄ながらサイドスローから繰り出されるキレ味鋭いシュートを武器にカープ黎明期にエースに君臨した長谷川良平。この年、前半戦だけで11勝を挙げたエースは、後半になっても絶好調を維持。終わってみれば、なんとシーズン30勝を達成。チームシーズン58勝のうち一人で半分以上を勝利する活躍でした。
カープのホームグラウンドとして、広島にナイター設備のある本格的な野球場を。地元財界の呼びかけで集めた企業からの寄付などを建設資金とし、1957(昭和32)年2月に着工。わずか5か月の突貫工事で、中四国初のナイター設備を持つ野球場として誕生したのが広島市民球場でした。これをきっかけに前年まで約47万人だったカープの観客動員数は約74万人へと増加。球団の資金力が上がったことで、有望選手の獲得へと動き始めます。
広島市民球場が誕生した翌年、早速プロ野球のもっとも華やかな行事のひとつオールスターゲームが開催されました。カープからはエース長谷川良平、ゴジさんこと強打の藤井弘、そしてフィーバー平山こと、平山智の3選手が出場。またコーチとして白石勝巳監督も出場を果たしました。
常勝巨人を相手に17勝8敗1分の好成績だったのが大きく影響し、このシーズンカープは創設以来はじめて勝率5割以上(62勝61敗7分け)を達成。これを機に「チームの地固めはできた」と白石勝巳監督は退任します。
それまで呉の二河球場などで春のキャンプをおこなってきたカープがこの年から日南でキャンプをおこなうようになりました。前年開場したばかりの日南・天福球場をベースとし、温暖で雨も少なく、JR(当時国鉄)油津駅から歩いて5分という利便性もあり、選手が野球に集中できる好環境が決め手でした。地元の住民も選手らを歓迎してくれ、現在まで60年以上にわたってカープの日南キャンプは続いています。
そのシーズン、絶好調だった巨人王貞治は前日も4打席連続ホームランを達成。まさに手が付けられない状態でした。5月5日の対戦を前に白石勝巳監督はあるアイデアが閃きます。カープの株主のひとつだった東洋工業が当時導入したばかりのコンピュータを使い導いた王の打撃の分析結果にはある特徴がありました。圧倒的に引っ張る打球が多かったのです。野手が極端にグラウンドの右寄りに守る「王シフト」はこうして生み出されました。
大きく曲がるカーブと持ち前の剛速球の2球種だけで、許したランナーはわずか1つの四球のみ。阪神の大エース村山実と互角以上に投げ合い、ついにプロ入り初勝利をノーヒットノーランで達成してしまった新人外木場義郎。「何なら、もう一度やりましょうか」試合後のコメントはその後も語り草になるほどでした。
球団創設以来「広島カープ」の名称で球団運営を続けてきたカープでしたが、この年、さらに経営の安定を求めて東洋工業(現マツダ)が筆頭株主となりました。オーナーに就いたのは東洋工業社長でもあった松田恒治。ただし「カープはあくまで広島市民の球団」とし、一企業の私有球団とはしないと明言。ただし、税務上の処理のために「東洋」の名を球団名に入れることになりました。以来半世紀以上カープ球団の名は「広島東洋カープ」として親しまれています。
一向にチーム浮上の兆しが見つからないカープは、大きな変革へと舵を切ります。それまで地元出身者や球団OBが監督となる慣例を断ち切り初めて外部の血を導入。前年コーチとしてカープのユニフォームに袖を通した”若親分”根本陸夫が監督に昇格したのです。松田恒治オーナーから「全試合負けてもいい。将来につながる強いチームを作ってくれ」との言葉を意気に感じてのことでした。根本は外木場義郎、安仁屋宗八、衣笠祥雄といった若手を積極的に起用。チームは初のAクラス入りを果たします。
チームの改革をめざす根本陸夫新監督が打ち出した策のひとつが、打撃の職人といわれた山内一弘の獲得です。打撃タイトルをいくつも獲り、理論派と言われた超一流選手の一挙手一投足に、当時若手として将来を嘱望された衣笠祥雄や山本浩二、水谷実雄、三村敏之らが大いに刺激を受けたのはいうまでもありません。
「何なら、もう一度・・・」が現実のものとなったこの年の9月14日の対大洋戦。そぼ降る雨の中にもかかわらず、この日の外木場義郎の剛速球は冴えに冴え、三振の山。気づけば16奪三振の日本記録とともに史上10人目の完全試合を達成。外木場はさらに1972年にもV9時代の巨人を相手に3度目のノーヒットノーランを達成。3度の達成は長いプロ野球史の中でも戦前の沢村栄治(巨人)と外木場の二人だけという快挙です。
根本陸夫監督がおこなったもうひとつのチーム改革が、新しいコーチの招聘で、関根潤三をヘッドコーチに、広岡達朗を守備走塁コーチに迎えました。前年入団の小森光生とともに3人は「頭脳集団(シンクタンク)」と呼ばれます。彼らは当時伸び盛りだった衣笠祥雄や山本浩二、水谷実雄、三村敏之、水沼四郎といった若手を猛練習で鍛えました。これが礎となって後にカープ初優勝となる1975年を迎えます。
開幕戦で三村敏之が、先頭打者ホームランと派手なシーズン幕開けになりました。5月13日から9連勝し、引き分け1試合を挟んで球団史上初の10連勝を達成。8月19日の中日戦では、藤本和宏が球団史上2人目のノーヒットノーランを達成し、最優秀防御率のタイトルも獲得しました。
根本陸夫監督ら36人が米アリゾナ州で初の海外キャンプを行い、シーズンに挑みました。4月29日の巨人戦で外木場義郎が、完全試合を含めて3度目のノーヒットノーランを達成。ランナーを出したのは、王貞治へのフォアボールひとつだけでした。3度のノーヒットノーラン達成は当時では、戦前の沢村栄治以来の快挙でした。衣笠祥雄が球団新記録の29本のホームランを打ち、山本浩二は25本、初めて2人そろって20本以上のホームランを打ちました。外国人選手2人を補強しました。
前太洋監督の別当薫が指揮を執りましたが、開幕5連敗と厳しいスタートとなりました。しかし6月6日には3年ぶりの単独首位になります。その後も首位争いを続けましたが、全6球団による接戦の結果、最後に力尽き最下位に終わりました。シーズン後、別当監督が辞任し森永打撃コーチが監督に昇格しました。
6月中旬までは勝率5割前後と好調でしたが、その後失速していまい2年連続最下位に終わったシーズンでした。しかし金城基泰が20勝をあげ最多勝のタイトル、さらに207個の最多奪三振のタイトルも手にしました。打撃面では衣笠祥雄が32本と自己最高のホームランを打てば、山本浩二も28本と2年ぶりに2人そろって20本を超えるなど、収穫もありました。金城はオフに交通事故で選手生命の危機に。森永監督に代わってルーツ監督が就任し球団初の外国人監督が誕生しました。
チームカラーが紺から赤に変わり「赤ヘル軍団」が誕生。しかし4月27日の甲子園阪神戦でルーツ監督が審判の判定に猛抗議、退場処分となり、そして退団となってしまいました。5月に入って古葉竹識監督が指揮をとることになると快進撃が始まります。10月10日、球団史上初のマジックナンバー「3」が点灯。10月15日後楽園球場で巨人を下し球団結成26年目でリーグ初優勝を決めました。胴上げ投手は、怪我から奇跡的な復活を遂げた金城基泰。山本浩二がMVPと首位打者、大下剛史が盗塁王、外木場義郎が最多勝、最多奪三振、沢村賞を獲得しました。日本シリーズは阪急に4敗2分と残念ながら日本一は逃していまいました。
優勝の翌年は開幕引き分けの後、5連敗でスタートしました。その後持ち直しましたが、勝負どころの9月で踏ん張り切れず3位に。しかし山本浩二、衣笠祥雄、ホプキンス、シェーン、三村敏之、水谷実雄の6人が20本以上のホームランを放ち、同一チームホームラン20本以上の選手6人の日本新記録を達成しました。投げては、池谷公二郎が20勝で最多勝、最多奪三振、沢村賞を獲得する活躍を見せました。
この年はチームのホームラン数が合計205本で日本新記録を達成したシーズンでした。山本浩二は自己最多タイの44本で球団初のホームラン王を獲得。さらにギャレットが40本、ライトルが33本、衣笠祥雄が30本と1球団で30本以上が4人という日本新記録も達成しています。この他、水谷実雄が首位打者のタイトルを獲得するなどカープの打力が大爆発した年でした。
高橋慶彦が連続試合ヒット33試合の日本新記録を達成するなどチームに勢いをつけると8月17日には首位に立ちました。9月に入って9連勝と勝ち続け優勝マジックが点灯。そして10月6日、地元での阪神戦に勝って2度目のリーグ優勝を決めました。山本浩二は3年連続で40本以上のホームランを打ち、打点王のタイトルを獲得。高橋慶彦が盗塁王、江夏豊が最優秀救援投手のタイトルを獲得しました。日本シリーズでは第7戦、江夏と水沼四郎が満塁のピンチで相手のスクイズを見破りアウトにするなどいわゆる「江夏の21球」で劇的な勝利を手にして初の日本一になりました。
4月を10勝4敗とスタートダッシュに成功するとその後も順調に勝ち星を重ねていきました。8月4日には衣笠祥雄が連続試合出場1247の日本新記録を達成。8月24日、開幕から87試合目に史上2番目の速さでマジック「35」を点灯させると10月17日に2位ヤクルトが敗れたため、移動中の新幹線の中でリーグ2連覇が決まりました。山本浩二が自己最多タイの44本のホームランで2度目のホームラン王と2年連続の打点王に。高橋慶彦は2年連続の盗塁王、江夏豊は2年連続の最優秀救援投手のタイトルを手にしました。
前年、79試合に出場し活躍を見せた長嶋清幸が背番号を「66」から「0」に変更し、日本球界初の背番号「0」を背負った選手が誕生しました。この年、長嶋は外野手として全試合に出場し、不動のレギュラーへ成長。チームを救う奇跡の一打を度々放つなど、その勝負強さから「ミラクル男」と呼ばれるようになりました。背番号「0」はその後、他球団でも誕生するようになり、今では背番号「00」も定着しました。
開幕12連勝と球団記録を更新する好スタートを切ると5月5日、山本浩二が2000本安打を達成しました。夏場には中日と激しい首位争いを繰り広げながらも、9月11日にマジック「16」が点灯。10月4日、小林誠二の完投勝利で4年ぶりのリーグ優勝を決めました。シーズン75勝は球団新記録。衣笠祥雄がMVPと打点王、20年目で初めて打率3割に到達しました。小林が最優秀防御率、新人王には小早川毅彦が選ばれました。日本シリーズも4勝3敗で勝って3度目の日本一を手にしました。
18勝の北別府学を中心に、川口和久、金石昭人、新人王の長富浩志らを擁し「投手王国」を築いたカープ。1986年10月12日、神宮球場でのヤクルト戦を8-3で勝利し、外国人選手抜きで2年ぶり5度目のリーグ優勝が決定。胴上げ投手は津田恒美。就任1年目の阿南準郎監督が宙に舞いました。北別府は最多勝利投手と最優秀防御率の2冠を達成。不動の4番、山本浩二が「気力の限界」を理由に引退を表明。背番号「8」はカープ球団初の永久欠番となりました。
1987年6月13日、広島市民球場での中日戦にスタメンで出場した衣笠祥雄が2131試合連続出場の世界新記録を樹立しました。1970年10月19日の巨人戦から始まり足掛け18年、デッドボールによる負傷にも耐えての達成でした。この年、衣笠は引退を表明し、前年に引退した山本浩二とともに黄金時代を築き上げた盟友二人がついにユニフォームを脱ぐことになりました。背番号「3」は永久欠番となっています。
阿南準郎監督の辞任を受け、1988年10月21日、「ミスター赤ヘル」と呼ばれた野球解説者、山本浩二の監督就任が発表されました。新監督としての背番号は88に決定。コーチ陣には大下剛史、水谷実雄、池谷公二郎など、黄金時代を支えたメンバーが集められました。
1990年11月29日、ドミニカ共和国に広島東洋カープの野球学校「アカデミー・オブ・ベースボール」を開校しました。マツダ スタジアムの約5倍の敷地に、4面のグラウンド、屋根付きブルペン、選手宿舎などを備えており、ドミニカ共和国で金の卵を発掘し、自前で育成することを目的につくられた日本球界初のアカデミーです。
1991年10月13日、広島市民球場で行われた阪神ダブルヘッダーの第2試合。佐々岡真司ー大野豊の完封リレーで勝利し、5年ぶり6度目のリーグ優勝を飾りました。山本浩二監督となってから初優勝、就任3年目での快挙です。佐々岡が最多勝利(17勝)と最優秀防御率(2.44)、川口和久が最多奪三振(230個)、最優秀救援(32セーブポイント)は大野が初めて獲得。カープが投手部門のタイトルを独占しました。
1991年10月13日、広島市民球場で行われた阪神ダブルヘッダーの第2試合。佐々岡真司ー大野豊の完封リレーで勝利し、5年ぶり6度目のリーグ優勝を飾りました。山本浩二監督となってから初優勝、就任3年目での快挙です。佐々岡が最多勝利(17勝)と最優秀防御率(2.44)、川口和久が最多奪三振(230個)、最優秀救援(32セーブポイント)は大野が初めて獲得。カープが投手部門のタイトルを独占しました。
1992年7月16日、ナゴヤ球場での中日戦で北別府学が勝利投手となり、球団としては初、史上22人目の通算200勝を達成しました。肘の故障の影響もあり90年代に入ると思うような成績を残せていなかった北別府でしたが、この年は14勝をマーク。再びエースとしての存在感をファンに示しました。
1993年3月4日、山口県由宇町(現岩国市由宇町)に建設していた2軍練習場が完成しました。それまでは福山市内に2軍の本拠地を構えていましたが、移動距離などの問題があり移転となりました。周囲は豊かな自然に囲まれ開放感のある練習場。入場無料で試合を観戦できることもあり、コアなファンの間では未来のスター選手を見出す場として人気です。
1995年7月29日の中日戦、広島市民球場に「スラィリー」が初お目見え。新しいカープのマスコットキャラクターが誕生しました。身長210cm、体重100kg、背番号は「!」。性別不明の謎多きキャラクターですが、試合の合間にお腹をクルクル回したり、鼻から様々な色のパターンがある「鼻ピュー」でファンを湧かせたりして、登場以来、カープの人気者として老若男女に愛されています。
1996年9月11日、広島市民球場でのヤクルト戦に、代打で出場した町田公二郎が左前打。代打で9打席連続出塁(安打4、本塁打1、四球4)は当時の新記録となりました。1996年は前半戦を首位で折返すなど好調でしたが主力の怪我などもあり9月に連敗が続き、3位でシーズンを終えることになりました。
1997年4月16日、大野豊が巨人戦に先発。6回を2失点に抑える好投で勝利投手になりました。41歳7ヵ月での勝利は当時のリーグ新記録。大野はその後も好調を維持し防御率2.85でシーズンを終え、史上最年長の42歳で最優秀防御率のタイトルを獲得しました。
1998年4月3日の中日戦に大野豊が先発。42歳7ヵ月での登板は、若林忠志(毎日)の持つ41歳1ヵ月の記録を更新し、当時の史上最年長開幕登板を果たしました。この98年シーズンをもって大野はファンに惜しまれながら引退しました。
1999年5月8日の中日戦に佐々岡真司が先発しノーヒットノーランを達成しました。球団では外木場義郎以来、27年ぶりで3人目の偉業。前年の1998年は5勝11敗6セーブと成績が振るわなかった佐々岡ですが、この年は1991年の17勝に次ぐ、15勝をあげる活躍でチームを引っ張りました。
2000年10月11日、シーズン最終戦となった神宮球場でのヤクルト戦で、四回、金本知憲が宮出隆自から30号本塁打を放ち、史上7人目の「3割・30本塁打・30盗塁」の偉業を達成。チームでは1995年の野村謙二郎に次いで2人目の記録です。
山本浩二監督が永久欠番となっている背番号「8」を背負い再び指揮したシーズンでした。この年から山本監督は5年間着任しましたが、FAによる主力の移籍、球界再編問題、ベテランの怪我や衰え、そして引退と苦労が絶えない厳しい時期を過ごしました。しかし、この頃から黒田博樹が2桁勝利や最多勝を獲得するなどエースとして輝き、新井貴浩を4番として使い続けるなど、後のカープの中心となる投打の2人を育てあげました。
広島市民球場にゴールデンレトリバーのミッキー君(雄)が、公式球の入ったカゴをくわえて登場したのは2005年のオープン戦。海外ではベースボールドッグの存在はあったものの、日本球界では初めてのことでした。その後2007年まで3シーズンにわたり活躍。背番号「111(ワンワンワン)」を身につけ、球審のもとへボールを運ぶ可愛らしい姿は、球場を大いに盛りあげました。
2006年、カープはジョー・ルーツ監督以来となる外国人監督のブラウンが監督に就任。投手の球数制限や中4日の先発ローテーションなど、今では当たり前となっているマネジメントを取り入れたり、守りでは内野5人シフトをひく大胆な采配もありました。勝利への情熱は凄まじく、審判の微妙な判定に対しては、猛烈に抗議することも。特にベースを投げて退場処分になったシーンは、今もファンの間では語り草となっています。
被爆した広島の復興のシンボルとして、街に光を灯し活気を与えてくれた旧広島市民球場は、1957年の完成から長年にわたって愛されてきましたが老朽化したため2008年に幕を閉じました。最後の公式戦となったのは9月28日。次代のエースとなった前田健太(現デトロイト・タイガース)が先発し、見事勝利で飾り最後に華をそえました。今、この場所は「ゲートパークひろしま」として新たな広島の象徴に生まれ変わり、市民の憩いの場として賑わっています。
当時としては珍しいアメリカのメジャーリーグスタジアムを思わせるつくりで誕生しました。座席をグラウンドよりも低くした「砂かぶり席」や寝そべって観戦できる「寝ソベリア」、バーベキューができるシートなど、ユニークな観戦スタイルも登場し多種多様な座席でファンを楽しませ、初年度から観客動員数は187万人を超え、後の3連覇へ続く布石となりました。
現在メジャーリーグで活躍する前田健太(現デトロイトタイガース)が大活躍。自身初の開幕投手を務め好投し白星発進。その後も勢いは止まることなく終わってみれば最多勝(15勝)、最優秀防御率(2.21)、最多奪三振(174個)の投手3冠と沢村賞に輝く活躍をみせました。前田はこの年から海を渡る2015年まで毎年2桁勝利をマークし、エースとしてチームを支えました。
前半戦はBクラスと低迷していたものの、後半からは追い上げモードに。特に9月に入ってからは7連勝するなど勢いにのり、3位で16年ぶりのAクラス入り、球団初のクライマックスシリーズ進出を果たしました。クライマックスシリーズファーストステージでは甲子園で阪神と対戦。敵地でありながら多くのカープファンが駆けつけアルプススタンドが赤く染まるほどでした。その応援も後押しとなり阪神に2連勝しファーストステージを突破。広島の街もおおいに盛りあがりました。
今ではすっかり定着した「カープ女子」という言葉は、この年に全国へ一気に拡大しました。マツダ スタジアムだけでなく、関東のビジター球場でも赤いユニフォームやカープグッズを身に着けた女性ファンが急増。2014年ユーキャン新語・流行語大賞の年間トップテンにも選ばれました。
1番・田中広輔、2番・菊池涼介、3番・丸佳浩(現巨人)の「タナキクマル」と呼ばれる攻撃的な打順が定着。鈴木誠也(現カブス)が交流戦で2試合連続サヨナラ本塁打を含む3試合連続決勝本塁打で一気にブレイク。黒田博樹と新井貴浩がベテランとして投打の柱となりチームを牽引、新井が2000本安打、黒田が日米通算200勝を達成したシーズンでもあり、9月10日、優勝を決めた瞬間、広島の街は感動と歓声に包まれました。
開幕こそ敗北したものの、2戦目をサヨナラ勝利で飾ると、そこから引き分けを挟みながら10連勝を記録。カープ黄金時代の到来を印象づけるスタートとなりました。9回に6点差をひっくり返し勝利を掴んだ7月7日「七夕の奇跡」をはじめ、2016年同様多くの試合を逆転勝利で快進撃を続け、9月18日にリーグ2連覇を達成しました。
開幕カード3連勝と好スタートを切ると4月24日以降は一度も首位を譲ることなく独走。一時調子を落としましたが、それでも優位は変わらず、9月26日に球団史上初のリーグ3連覇、9度目の優勝を達成しました。セ・リーグでの3連覇は巨人に次いで史上2球団目。本拠地でのリーグ優勝は1991年以来27年ぶりでマツダ スタジアムでは初となりました。
前年4位の成績を受けて緒方孝市監督が辞任、佐々岡真司が監督に就任しはじまったシーズンでした。しかし、新型コロナウイルスが大流行し3ヵ月遅れての開幕や無観客試合での開催、交流戦、オールスターゲームの中止など異例づくしの年となりました。そんな中でもルーキーイヤーだった森下暢仁が10勝をあげ、新人王を獲得する活躍を見せてくれました。
3年連続Bクラスの結果を受けて佐々岡真司監督が辞任、新井貴浩が監督に就任しました。「家族」を合言葉にチームをまとめ一丸となって闘ったシーズンは、下位予想の下馬評を覆す闘いを展開、5年ぶりのAクラスとなる2位でクライマックスシリーズ進出を果たしました。低迷していたVの功労者、田中広輔、中﨑翔太が復活の兆しを見せ、島内颯太郎が最優秀中継ぎ投手に輝くなど若手の台頭とベテランの復活が印象深い年でした。
6月7日、ロッテ戦に先発した大瀬良大地が球団史上5人目のノーヒットノーランを達成しました。前年の2023年シーズンは、思うような成績を残すことができまず、オフには3度目となる肘の手術に踏み切るなど、不安を抱えて始まった2024シーズンでしたが、それを感じさせない好投を披露。勝ち星に恵まれなかったものの防御率1.86をマークし、かつてのエースの姿を取り戻しました。
沖縄出身では初のプロ野球選手として活躍。特にV9時代のめっぽう強かった巨人打線に対し臆せず内角を鋭く突くシュートを武器に立ち向かい「巨人キラー」と呼ばれた。通算119勝のうち34勝が巨人からであり、常に真っ向勝負を挑むその勇姿に多くのファンは胸のすく思いを味わっていた。カープ退団後はカープびいきの野球解説者としていまもファンに親しまれている。
広陵中から1936年巨人に入団、巧打の遊撃手として活躍。当時打球は両手捕球が普通だったところを、三遊間の打球に関しては半身を伸ばして片手で捕り一塁に送球したことから「逆シングルの名手」と呼ばれた。1950年地元のカープ球団創設とともに移籍。1年目を162安打、20本塁打の自身最高成績で飾りベストナインに輝いた。1953年から11年間監督を務める。1985年野球殿堂入り。2000年没。
チャンスに強く、満塁本塁打やサヨナラ本塁打が多かったことから「神さま、仏さま、藤井様」とファンから称えられるとともに、その怪力ぶりは当時の人気映画「ゴジラ」をもじって「ゴジさん」とも親しまれた。現役引退後はコーチとしても活躍。特にカープ黄金期の古葉政権を支え、1塁コーチャーズボックスでの勇姿は多くのファンの脳裏に焼き付いている。2018年没。
通算263盗塁は球団歴代4位、俊足好打の1番打者として活躍。もっともファンを沸かせたのは1963年の長嶋茂雄(巨人)との激しい首位打者争だった。しかし、古葉は終盤あごに死球を受け離脱を余儀なくされ栄冠を逃す。そんな劇的な現役時代以上にファンの感動を呼んだのが監督時代。14年間で4度のリーグ優勝、3度の日本一を成し遂げた。1999年殿堂入り。2021年没。
鹿児島県出身。1965年10月2日の初勝利がノーヒットノーラン。1968年に自己最多21勝。1968年9月14日に完全試合達成。1972年4月29日に3度目のノーヒットノーラン。ストレートとカーブだけで勝負するのが信条だったが、初優勝を決めた1975年10月15日の巨人戦では、満塁のピンチでスライダーを投げてダブルプレーをとり、初優勝に大きく前進した。最優秀防御率 1回、最多勝利 1回、最多奪三振 1回、沢村賞 1回。ベストナイン 1回、オールスター出場 6回。
沖縄出身では初のプロ野球選手として活躍。特にV9時代のめっぽう強かった巨人打線に対し臆せず内角を鋭く突くシュートを武器に立ち向かい「巨人キラー」と呼ばれた。通算119勝のうち34勝が巨人からであり、常に真っ向勝負を挑むその勇姿に多くのファンは胸のすく思いを味わっていた。カープ退団後はカープびいきの野球解説者としていまもファンに親しまれている。
身長167cmと野球選手としては小柄な体格から、「小さな大投手」の異名を取り、通算197勝を記録。持ち味はシュートで、あまりの変化の鋭さに相手打者のバットがへし折られることも再三あったという。引退後はカープの投手コーチや監督を務めた。2001年に野球殿堂入り。2006年没。
広島商時代からプロが注目する強打の逸材として、地元出身の代議士からも説得されカープに入団。卓越した打撃理論と一日2,000本の素振りで技術を磨き通算1308安打、171本塁打。弱小球団時代のカープにあって5度の打撃10傑入りを果たした。現役引退後は打撃コーチとして金本知憲、江藤智ら多くの強打者を育てた。2016年没。
鹿児島県出身で2年目には先発に定着。3年目に10勝をあげるとそこから11年連続で2桁勝利をあげるカープのエースになった。「精密機械」といわれるコントロールと並外れた洞察力で打たせて取るピッチングが持ち味。1982年には、初の20勝をあげ最多勝受賞。1986年は18勝4敗で最多勝・最優秀防御率・最高勝率・MVP・沢村賞・ベストナインなどタイトルを総なめして優勝に貢献した。1992年7月16日、球団生え抜きとしては初の200勝を達成した。2023年没。
入団1年目から先発として11勝をあげ球団初の新人王を獲得。一時は血行障害に悩まされ低迷するも抑えに転向すると復活。1986年のリーグ優勝に大きく貢献した。気迫を前面に押し出し、大打者に向かってストレートで真っ向勝負。バース(阪神)や原辰徳(巨人)と名勝負を繰り広げ、いつしか「炎のストッパー」と呼ばれるようになった。しかし投手としてまだまだ働き盛りだった最中に脳腫瘍を患い、32歳の若さで生涯を終えた。1993年没。
150km近い速球と多彩な変化球を武器に1980年代のカープ投手王国を支えた1人。チーム事情に合わせてリリーフ、先発とさまざまな役割を担った。晩年もその力は衰えることなく、42歳にして最優秀防御率のタイトルを獲得。また、当時の史上最年長記録となる開幕投手を務め、その年、惜しまれながらユニフォームを脱いだ。引退セレモニーで発した「我が選んだ道に悔いはなし」は今もファンの間で語り草となっている。
野球選手としては小柄ながら打ってよし、守ってよし、走ってよしの名遊撃手。盗塁王3回、最多安打3回、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞など数々のタイトルを獲得。95年にはトリプルスリーを達成した。現役最終年の2005年は球団史上3人目となる2000本安打を達成。2010年からカープ一軍監督に就任すると、2013年に16年ぶりのAクラス入りと初のCS進出へ導き、後の3連覇の礎を築いた。
京都出身で最初は捕手で2年目から1塁手として出場。1975年から三塁にコンバート。ホームラン通算504本は歴代7位タイ。1974年から13年連続で20本以上のホームランを打っている。デッドボールで怪我をしながらも連続試合出場を続け1987年、米大リーグ記録(2130試合)を破り2215試合連続出場記録を樹立。“鉄人”と称され実働23年、通算2677試合に出場。1987年には国民栄誉賞を受賞した。背番号「3」は永久欠番。2018年没。
広島出身の走攻守そろった外野手。初優勝した1975年は首位打者でホームラン30本を放つ活躍だった。ホームランバッターとして開花したのは30歳になってからという遅咲きのスラッガー。1977年から5年連続で40本以上のホームランを放っている。通算ホームラン536本は歴代4位で大学卒業の選手としてはトップ。キャリア18年で15年は20本以上打っている。まさにミスター赤ヘル。背番号「8」は永久欠番。
東京都出身。入団後、古葉監督からスイッチヒッターの指示を受け猛練習にあけくれる。その努力が実り1978年にはレギュラーに定着。打率3割を超え、初のベストナインに選ばれる。1979年には俊足が際立ち、55盗塁で盗塁王に輝き、33試合連続ヒットの日本記録も樹立。さらに日本シリーズではMVPを受賞した。1980年にも盗塁王を獲得。1985年には、キャリアハイの73盗塁で5年ぶりにタイトルを獲得した。
兵庫県出身で1978年南海から移籍。翌年の1979年は、10月6日の阪神戦で最後は江夏投手がしめくくりリーグ優勝。プロ12年目で初めて優勝を経験した。その年の日本シリーズ第7戦は、「江夏の21球」で勝利をおさめ、カープを初の日本一に導いた。
伝家の宝刀、スライダーとカーブを決め球に先発とストッパーで活躍。91年は17勝をあげ優勝に大きく貢献し、99年にはノーヒットノーランの偉業を成し遂げた。引退後は投手コーチを経て2020年~2022年に監督を務めた。コロナ禍の壮絶な期間でもあり、Bクラスが続いたがその中でも森下暢仁、栗林良吏が新人王を獲得するなど、現在の投手陣の中心となる存在を見出した。
イチローや落合博満など、球界の名選手らもその才能を認め、自身も打撃への飽くなき探求心を持った天才打者。しかし1995年5月23日、神宮球場でセカンドゴロで一塁を駆け抜けた瞬間、右アキレス腱を断裂。それからは毎シーズンケガや痛みと戦い続けた。それでも2002年にはカムバック賞を受賞、2007年には名打者の証、2000本安打を達成。11シーズンで打率3割を記録し通算打率は.302。ケガに負けず掴んだ実績は、まさに努力の証。
俊足、強肩の外野手として90年代~2000年代に長らく活躍した外野手。盗塁王3回、ゴールデングラブ賞5回を獲得。引退後はコーチを経て、野村謙二郎から引き継ぐ形で2015年から監督に就任。2016年に25年ぶりのリーグ優勝、そして球団初のリーグ3連覇を成し遂げるなど、監督としても輝かしい実績を残した。
抜群のコントロールと質の高い変化球を駆使し的を絞らせないピッチングが魅力。引退した佐々岡真司から背番号を受け継ぎ才能が開花。沢村賞受賞や投手3冠、ノーヒットノーランなど数々の偉業を成し遂げ、2016年からは海を渡りメジャーへ挑戦。現在はデトロイト・タイガースで活躍している。投球前のウォーミングアップで両腕をぐるぐる回すストレッチは「マエケン体操」といつしか呼ばれるようになり、野球少年たちがこぞって真似した。
カープから海を渡り、ドジャース、ヤンキースと名門チームでも活躍。カープの低迷期は「ミスター完投」と呼ばれるほど、長いイニングを投げぬき、チームを支えた。メジャーの高額オファーを蹴って2015年にカープに復帰。2016年は満身創痍の中、快進撃を続けるチームのローテーションの一角を担い支え続けた。25年ぶりの優勝を決める試合では先発し好投。流れを相手に渡さず、優勝を手繰り寄せる投球を見せた。その年に惜しまれながら引退。現在はカープの球団アドバイザーとして投手育成に力を注ぐ。2024年野球殿堂入り。
「まさか、あの新井さんが」入団時を知る同僚や野球関係者はもちろん本人まで口をそろえていうほど、技術やセンスが足りていなかった。しかしカープ仕込みの猛練習で大打者の道を進み、2005年には本塁打王を獲得。2015年、カープに復帰するとベテランとしてチームの精神的支柱となり、2016年には大打者の証2000本安打を達成。2023年からは監督に就任、2018年以来の優勝、日本一の宿命を背負い采配をふるう。